【雑談】暴言吐くけど良い人

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「かれピ、暴力とか振るうけど良い人なの…」

 

Twitterで流れてくる漫画の広告にありそうなシチュエーションだが、そもそもな話暴力を振るう人が良い人ということがありえるのか。

まず初めに暴力を採り上げたのであまり現実味を感じられないかもしれないが、

 

「普段は暴言ヤバいけど良い人だよ」

 

と評価出来るような人が周りに居るなら注意が必要だと思う。

その注意の対象は「暴言ヤバいけど良い人」ではなく、その考え方をしているYou自身である。

 

そもそも「良い人は暴言ヤバくない」のである。

良い人の定義にもよるかもしれないが、とりあえず今回は「他者の気持ちを考えられ、共感する能力を持ち、不用意に人を傷つけない道徳的な人」を"良い人"の定義とする。

こういう人は大体「良い人」と呼ばれがちである。

 

で、そうした定義の基で「普段は暴言ヤバいけど良い人」は個人的にまず存在し得ないと思うのだが、それでもこういう考え方が実際に存在する理由として、「欠点となる"暴言ヤバイ"部分の矛先が自分に向いていないので良い人評価を下している」可能性が考えられる。

 

「他の人には暴言ヤバいけど俺には優しい」

ヤンキー漫画でありがちだが、一般人には迷惑を掛けるし、道行く人には喧嘩を売るし、無論暴力も厭わないけど仲間には異様に優しいヤンキー。

これに対してヤンキーの後輩が「アニキ最高っス!アニキに一生付いていくっス!」となるのは、あくまでその喧嘩の対象が自分に向くことはないからと考えられる。(勿論カリスマ性に惹かれてというのもあるかもしれないが)

さらに言えば「他の人は被害を受けているのに自分だけ被害を受けていない事への優越感」が介在しているケースもある。

 

上の例で言うなら、仲間には異様に優しかったヤンキーが急に仲間にも暴力的になりだしたら、まぁ普通に嫌われると思う。

ただしこの場合、本人の行いが変わっているわけではなく、あくまでその行いの対象が広がっただけである。

本人の行いが一切変わっていないのに「良い人」ではなくなるというのはいささか不思議ではないだろうか。

 

「良い人かどうか」というのは主観的な感想になりがちなので、個々によってその認識がブレるのはそりゃそうなのだが、例えば「殺人を犯した人」に対して「あの人実は良い人だよな」とはまずならない(それが起きた背景にもよるが「だったら殺人が起きても仕方無いよな…」となるのは超超極めてレアケースである)。

殺人となるとやや極端だが、じゃあこれが暴力や暴言になれば良い人足り得る可能性が出てくるのかと問われると別にそんなことは無いと思う。まぁそもそも先の定義で「人を傷つけない」ことを良い人としているので、暴力や暴言は言語道断である。

 

これらを踏まえた上で、

「一般人には迷惑を掛け、他者には暴力を振るい、時には犯罪行為にも手を出すが仲間には異様に優しく、仲間からは"良い先輩"として慕われるヤンキー」は"良い人"ではないと考える。

…ここまで長ったらしく書いたが、これだけなら「いや、そんなの当たり前ジャンw」と一蹴出来る人も多いかもしれない。

ところで

 

無関係の人には遠慮無く面と向かって暴言をかますけど同じコミュニティ内の人間に対しては優しい」人、周りに居ないだろうか。

 

程度の差はあるとはいえやってる事は上のヤンキーの例と概ね同じである。

こういう人を指して「良い人」と評価する人が結構な数身近に居る

類似した例で言えば

 

普段暴言ヤバいし身内にも平気で暴言吐くけど、時々謝るし褒めたりもする」人。

こういう人を指して「なんだ。実は良い奴じゃん」となるのはかなり危ない

これはDV加害者などにありがちな傾向である。繰り返すようだが、良い人は人を傷付ける暴言を吐かない

 

…で、この考えが何の役に立つかと言うと、シンプルにその人と人間関係を築くべきかどうかの選別に役立つ

 

大学生ギリギリくらいまでならともかく、社会に出て未だに他人に面と向かって暴言を吐くような奴はもれなくヤバい奴なので、関わるだけ損である。

特にインターネッツにおいてそういう奴は関わるメリットより関わらないメリットの方が遥かにデカい。

 

ぶっちゃけ自分も大学卒業くらいまではネットで尖っていた(というよりキモかった)時期が確かにあるので、あまり人にどうこう言えるような立場でも無いのだが、その頃に比べると明らかに今現在は丸くなったという自負がある。

 

というか大体のネット民は大学生をピークにどんどんと角が取れていき、最終的には息してるのか分からんくらいの落ち着きようを見せていくのが普通だと思うが、それでもなお若気の至りを引っ張ってイキり散らす大人は見ていてとても恥ずかしい。

 

…ここまで「良い人」を基準として書いてきたが、こうして見ると「良い人かどうか」というより「ヤバい奴かどうか」という見分け方な気がしてきた。

 

ここからは話がやや飛躍するが、いわゆる「精神年齢」は必ずしも「年齢」と比例するわけではないのは自明である。(ちなみにここでの精神年齢とは、社会常識であったり他者への共感性であったり、人が生きていく中で身に着けておくべき教養の根底部分の成熟度みたいなもんだと定義)

一応理由を説明しておくと、精神年齢というのは「環境」によって増すものである為

そして、通常「環境」は「年齢」と共に移り変わっていく。

その為、普通に過ごしている人間なら「年齢が上がる→環境が変わる→精神年齢が上がる」といった具合に中身が成熟していく。

 

逆に言えば、環境が変わらなければ精神年齢は変わらない。小学校に入学して20年間小学生のまま過ごした場合、精神年齢が小学生の状態でストップするのはなんとなく想像出来るのではないだろうか。

 

しかし難しいのは、環境が変わったからといって必ずしも精神年齢が上がるとは限らない点である。むしろ下がることもある。

確かに通常の人間であれば段階を踏んで過ごす環境は変化するが、例えば小中ずっと成績トップの優等生が、なんらかの手違いでクローズの舞台のような高校に入学してしまった場合、まず間違いなく落ちぶれてしまうのは想像するに難くない。

 

環境環境と言っているが、実際に個人に影響を及ぼすのは「周囲の人間」である。

というか、そもそも環境は周囲の人間の手によって作られる。

先の例で言えば、クローズの舞台は「登場人物が全員あんな感じだから」あんな環境になっているわけであり、その環境に身を投じれば「あんな感じ」になるのは当然である(唐突な語彙力喪失)

 

要は「自分が主に関わっている周囲の人間」が「自分の精神年齢」を構築していると言っても過言ではないということ。幼少期に親からあまり良い扱いを受けなかった子供が将来的にグレるのは大体これが原因である。

 

こういった点から、自分が関わる人間というものはある程度の選別をすべきであり、なおかつ自分が「関わっても大丈夫な人」と思っていても実際はそいつが結構やべぇ可能性もあるのでちゃんと客観的に見た方がいいぞっていう記事でした。

 

ちなみにこれを書いたのは、グラブル時代の知り合いが「この人暴言吐くけど良い奴なんだよね」とつぶやいていたことがきっかけです。

サブブログなので相変わらず推敲も読み返しもなんもしてないです。